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エピソード

第1回 科学主義工業の理念と実践


大河内正敏は憂いていた。

西欧諸国から百年遅れて近代化に着手した我が国は、まず西洋の学問と技術を輸入し、大急ぎで近代産業の建設を推し進める必要があった。
この方法による産業の建設は、日清戦争から日露戦争に至る時期まで顕著な成果を生み出した。明治末期から大正初期にかけて、学問と技術の一通りの適用が終わり、開発しうる限りの開発が行われた後、我が国はその上の段階へ進むための壁に突き当たっていた。

この時期の事業家の主流ともいうべき考え方は、いたずらに金と時間を浪費する研究よりも外国の新技術を学び取ることに注力すべき、といったものであった。立派な産業指導者でも、自ら新たな研究による新たな産業を創造しようという意気に燃える者はほとんど見当たらなかったのである。

西洋の模倣を追いかけ続け、目先の利益を追求する事業家にとっては、最も合理的な判断だったのかもしれないが、長い目で見れば、それは我が国の産業が模倣産業の域を出ず、独自の発展を遂げる道を自ら閉ざしてしまう判断だったのである。

大河内はこのような事業家の態度を憂い、それを「資本主義の弊害の然らしむるところ」と断じ、「科学主義工業」なるものを主張したのである。

経済学上の観念として「資本主義」と「科学主義」を対峙させるユニークな発想はいささか明瞭性を欠くものであったと言われているが、大河内の言わんとしたことは明らかである。

いたずらに西洋の技術の後を追うことなく日本独自の産業を科学的に建設する。それが科学主義工業の考えである。

すなわちそれは、海外から特許や製造権を買うのではなく、科学によって新たなる技術を創造し、我が国独自の産業を打ち立てるということであり、大河内のこの主張は我が国の産業の進むべき方向についてはっきりとした方向性を示し、天下に呼号したということである。

この理想を実現せんとした大河内は、理化学研究所の第三代所長として、科学による新たな技術の創造に取り組み、成果をもって産業化するとともに理研コンツェルン(後に理研産業団)として発展させ、この理想の実現に生涯をかけ不断の努力を続けたのである。

(参考:「大河内正敏 人とその事業」(昭和29年9月1日 大河内記念会)より「私の見た大河内博士の功績 いわゆる科学主義工業の主張 石橋湛山」)