大河内正敏とは
大河内正敏とは
大河内記念会は、大河内正敏博士の学界、産業界に残された功績を記念して、1954年(昭和29年)に設立されました。
その後今日まで、博士の遺志となった「生産のための科学技術の振興」を目的として、大河内賞による表彰事業等を実施しています。
大河内正敏博士略歴(1878~1952)
- 1878年(明治11)12月旧大多喜藩主大河内正質長男として東京都港区浜松町に生れる
- 1903年(明治36)7月東京帝国大学工科大学造兵学科卒業
- 1911年(明治44)11月東京帝国大学教授(33歳)〔1925年(大正14)まで在任〕
- 1914年(大正3)2月工学博士(36歳)
- 1915年(大正4)2月貴族院議員(37歳)
- 1921年(大正10)9月財団法人理化学研究所所長(43歳)〔1946年(昭和21)まで在任〕
- 1927年(昭和2)11月研究所の特許工業化のため理化学興業(株)を興しその取締役会長となる(49歳)
- 1933年(昭和8)3月帝国発明協会から恩賜記念賞(ピストンリングの製法発明)を受賞(55歳)
- 1934年(昭和9)3月この前後、マグネシウム、ピストンリング、理研酒、感光紙、電線、鋼材、薬品、工作機械等60余の会社(理研コンツェルン)を興し、その主要会社の取締役会長となる。1942年(昭和17)その大半を辞任する
- 1938年(昭和13)2月帝国発明協会から恩賜記念賞(金属マグネシウムの製法発明)を受賞(60歳)
- 1943年(昭和18)3月内閣顧問(65歳)
- 1946年(昭和21)10月財団法人理化学研究所所長を退任(68歳)
- 1952年(昭和27)8月逝去(74歳)
大河内正敏博士の歴史
大河内正敏博士の功績
- 研究室制度の創設(主任研究員に研究室運営の全ての権限を与える)
- 科学主義工業(科学研究で国家の産業基盤をなす)の実践と理研コンツェルン(後理研産業団)として理化学研究所を支える
- 我が国の生産工学・生産技術の発展に貢献