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エピソード

第3回 大河内正敏は政治家であった


大河内正敏は、貴族院の論客であった。

現在、大河内賞にその名を残す大河内正敏であるが、その活動中にはいくつもの顔があり、中には余り知られざる顔もあった。令和の現在、大河内自身の知名度はけっして高いものではないが、主に知られている理化学研究所の研究室を主宰する主任研究員及び所長という顔、企業集団(後理研産業団)理研コンツェルンの長としての企業家以外の顔を持っていた。

恐らく、大河内の存命中、上述の2つの顔に次いで知られていたのが「政治家大河内」としての顔である。

旧上総大多喜藩主の家系に生まれた大河内正敏は、第一高等学校在籍中、旧吉田藩主子爵大河内信好妹一子と結婚、婿嗣子として入籍することにより子爵という華族の顔を持ちえたことにより、貴族院議員を務めるに至った。
貴族院は、皇族議員、華族議員、勅任議員により構成されていた。華族の内、公爵、侯爵は、現役軍人以外は全員が貴族院議員となれたが、伯爵、子爵、男爵については定数があり、それぞれの爵位の中から互選で選ばれていた。大河内は子爵議員の一人として、国政に参画した。

一議員の功績は、なかなか世の中に伝わらないものであるが、ここで大河内の貢献をいくつか紹介しよう。

ひとつは大正14(1925)年の普通選挙の導入法案(衆議院議員選挙法改正案)に対する貢献である。
普通選挙の導入にあたり、当初は枢密院の意見、のち貴族院の意見により欠格要件(選挙権を与えない条件)を規定することとなったが、その要件として、上記した勅任議員の内、学識経験者より、中学(旧制)卒業以上の学歴制限をつける強い意見が出ていた。これに反対したのが大河内で、中卒未満の学歴者でも政界、実業界で相当に働いている者があることを理由に勅任議員と渡り合い、最終的には学歴制限のない普通選挙が導入されることとなった。

もうひとつは、昭和3年田中義一内閣時の優諚問題である。優諚問題の説明は長くなるので割愛するが、当時の貴族院5会派が、「内閣総理大臣の措置に関する決議」という問責共同声明案を貴族院本会議に提出したのである。
当時大河内が属していた貴族院最大会派の研究会は、会派方針による決議拘束主義を取っていたが、田中首相の衆議院政権与党政友会とのパイプを持つ保守派議員が多く、決議に賛成する改革派との間で会派としての意見がまとまらなかった。そこで、大河内が関係者間を調整し、この決議案への対応を決議拘束の除外例としたのである。これにより、研究会の三分の一の議員が決議に賛成し、最終的に決議案の可決に至ったのである。

大河内は、通常は専門の仕事に没頭し、余り議会には出席しなかったようであるが、このような重大なことがあると大勢を動かすだけの一役を買ったようである。

(参考:「大河内正敏 人とその事業」(昭和29年9月1日 大河内記念会)より「政治家大河内正敏君 大河内輝耕」)
(参考:愛知淑徳大学論集 交流文化学部篇 第9号 2019.3「田中義一内閣と貴族院-「優諚問題」を中心に- 西尾林太郎」 )