エピソード
第7話 陶磁器研究の草分け、大河内正敏
大河内正敏は、科学者、経営者であるだけではなく、趣味人としても超一流の人物であった。特に、陶磁器研究については草分け的な存在であった。
大河内は、東京帝国大学教授時代、学内の愛陶家を糾合して「陶磁研究会」を組織したが、この会こそは近代日本における合理的な陶器鑑賞の啓蒙運動の最初の烽火をなすものであった。
この運動は、やがて社会的規模を持つまでに発展し、陶磁器鑑賞の分野において、作品の真偽を中心とする骨董趣味とは隔絶し、作品そのものを評価する近代的な観賞を追求する立場で「科学的」な鑑賞に先鞭をつけた「彩壺会」の誕生を見るに至るのである。大河内はこの研究会を主宰した。
大河内はこの彩壺会において、国産陶磁器の価値の再検討と評価を行い、その客観的系統研究(学問的研究)に基づき分類法を確立したのである。
大河内の主導するこの啓蒙活動と研究活動は、従来は一部富豪がその蔵品を秘して社会に公開せず、大方神秘の幕の裏に隠され、ただ断片的にしか知られていなかった古陶の姿を明らかにし、その審美を社会公有のものとしたのである。
大河内はこの彩壺会の主宰者として、大正 5(1916)年から理研所長就任直後の大正 10(1921)年 10 月までの間、13(+α)の研究書を発表(内 11 冊が大正 10 年の作)している。(公職を退いた後、昭和 22(1947)年にも 2 冊を発表している。)
大河内は古九谷、鍋島、柿右衛門の価値を認めた先駆者であり、特に古九谷については当時第一人者であった。そして、古九谷、鍋島に関する戦後の研究の基礎をなしたのは大河内の研究と言っても過言ではない。
第二次大戦後の昭和 21((1946)年日本陶磁器協会の設立にあたり、大河内はその会長就任を、公職を退いたことを理由に固辞したとされているが、その設立に大きな影響力を持っていたことを、協会の中心人物であった佐藤進三が書き残している。大河内の趣味は長男の磯野(大河内)信威に引き継がれ、信威は日本陶磁器協会の中で大きな役割を担っていく
大河内は古陶の収集家でもあったが、そのコレクションは遺言により、全て東京国立博物館に寄贈された。陶磁器の審美を社会公有のものとするという考え方を最後まで貫き通したのである。
(参考:「大河内正敏(人とその事業」((昭和 29 年 9 月 1 日(大河内記念会)より
「大河内先生と陶器鑑賞 満岡忠成」、「大河内先生と古陶研究 佐藤進三」)

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