エピソード
第9話 農村工業と大河内正敏
大河内正敏は、農村の余剰労働力の価値に目をつけた人物であった。
明治大正の殖産興業により、日本の製造業が機械化、大工場化され、諸外国と肩を並べるに至る中で、諸外国の製品との産業戦にいかに勝ち抜くかが、産業発展のための次の課題となっていた。
その中で、大河内は良い製品を安く生産する(良品廉価)生産方式こそが諸外国との産業戦を勝ち抜くために重要なことだと考えた。そのためには資本主義による多額の資金投入によっても解決し得ないものがあることに着目した。即ち、機械生産を補完する作業上の熟練である。
大河内は、作業上の熟練を科学によって置き換えようと考えた。熟練に要する時間を科学の力で数百分の一、数千分の一に短縮する。これが即ち科学主義工業の発想である。科学によってもたらされた専門工作機械を導入すれば、非熟練者が安価に熟練者を上回る製品を製造することができるということである。
その時、大河内が着目したのが、明治大正の殖産興業による機械化、大工場化で、繭から絹糸を紡ぐ作業などの家内制手工業を失った農村の余剰労働力であった。
科学によってもたらされた専門工作機械が導入されれば、熟練した技術を持たない農村の余剰労働力を活用することができると考えたのだ。資本主義が奪った農村の家内工業を科学主義工業により再び取り戻し、農村を生産拠点として活用する、これが大河内のいう「農村工業」である。
大河内の農村工業提唱は、大正 13((1924)年 6 月、(「農村興興に関する一考察」という冊子を貴族院衆議院両院議員及び貴族院の自らの所属会派である工政会会員に配布したところに始まる。翌大正 14((1925)年 7 月には「農村の工村化」というパンフレットを配布しているが、具体的に政策に取り入れられたのは昭和 9 年まで待たなければならなかった。
昭和 9 年、政府の施策として取り上げられた農村工業の普及啓発のため、社団法人農村工業協会が設立されると、大河内はその初代会長となり、その講演、指導に力を尽くした。また、多くの工業分野における農村工業の導入は農林省(当時)、商工省(当時)に委ねたものの、精密機械工業についてのみは、自らの手でモデルとして実施したいとの考えから、理研ピストンリング株式会社直轄のもと、同社と協会が連携し、新潟県柏崎付近などにおいて小規模工場(家庭作業所)を農村に数多く設け、農村の余剰労働力を単能工として活用。それぞれ好成績をあげて世の反響を呼んだのである。
参考:「大河内正敏 人とその事業」(昭和 29 年 9 月 1 日 大河内記念会)より「大河内先生と農村工業 田中章一」/(「農村の工業と副業」(大河内正敏著 昭和 12 年 10 月 20 日 科学主義工業社)

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