エピソード
第 5 話 大河内正敏と理化学研究所(その1)
~ 所長大河内の誕生、意気込みと実践 ~
発足当時の理化学研究所は、物理学部と化学部の二部制からなっていたが、発足時には、民間からの寄付金は 219 万円と予定されていた設立に必要な民間資金 500 万円の 4 割強の申込みに過ぎなかった。また、菊池大麓初代所長の急逝、物理学部と化学部の覇権争いなどが激化し、古市公威第二代所長、櫻井錠二副所長、長岡半太郎物理学部長、池田菊苗化学部長の四名が理事会に辞表を提出するなど、研究所の要である経営陣が機能不全に陥っていくのである。
研究を通じて、日本の産業を興し、日本を欧米に伍す国にするという高峰譲吉や渋沢栄一の高邁な理想のもとに政財界を巻き込み、帝国議会での激論を経て設置された理化学研究所であったが、いざ船出をしたものの、あわやもう一歩のところで沈没の危機にさえ晒されていたのである。
理研の設立に深く関わっていた渋沢栄一は、発足後も、理事として理研のこの危機からの脱却を図るべく、山川健次郎などと相談、理研を立て直しに着手し、所長に相応しい人材は大河内以外にいないとの結論に達し、大河内に白羽の矢が立ち、ここに理化学研究所第三代所長大河内正敏が誕生した。大河内は当時、理研研究員、東京帝大教授、貴族院議員、子爵であった。大河内の生まれは明治11 (1878)年 12 月 6 日であるから、就任時は、満 42 歳であった。
大河内は、大正 10 (1921)年 10 月の所長就任挨拶で次のように述べている。
「研究所運営の方針として、学術の研究と実際とを結合せしむるの方法を講じ、以って産業の基礎を確立すること、したがって、実業界との接触頻繁となり、自然経費の幾分かさむものあらんも、之を諒せられたきこと、また研究者は研究を生命と為すものなるが故に、研究に耐えざるに至りたる者、もしくは研究能力の欠くに至りたる者は之を罷免して、新進気鋭の研究者を採用する見込みなる旨を陳述す」
つまり、大河内は基礎研究の成果を産業の基盤にすること、及びその担い手である研究者の能力が第一である方針を明確に打ち出したのである。
しかし、発足当初予定していた民間からの寄付金は、第一次世界大戦後の不況が重なり、なかなか集まらなかった。そのうえ、西欧依存体質の産業界には理研の研究成果は容易に受け入れられなかったため、財団理研に残された道は、研究成果を自らが実施し、財政的に自立する方途を講じる以外になかった。
(参考:「大河内正敏 人とその事業」(昭和 29 年 9 月 1 日 大河内記念会)より
(参考:財団法人理化学研究所 「研究 25 年」)より