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エピソード

第 6 話 大河内正敏と理化学研究所(その2)


~ 大河内の改革は研究室制度から始まった ~

大河内は着任後ただちに、大胆な体制の二つの改革に着手した。

まず、二部制を廃止し、フラットな組織として 14 からなる研究室制度を創った。
当時、教育は帝国大学、研究は理研と二極化され、各界からは理研への期待が多く、理研の研究室では帝国大学の優秀な研究者が研鑽を積んでいった。

大河内が研究所運営の要として創出した研究室制度は、研究室を運営する研究員を主任研究員として委嘱し、研究項目(研究テーマ)、研究推進方針、研究遂行に必要な研究機器・資材、研究員採用の人事権などの研究室運営のすべての裁量を主任研究員に委ねた。
日本で最初の研究室制度の創出である。

また、研究室を主宰する主任研究員には大学との兼務を認めており、研究室制度が発足した 1921(大正 10)年から 1948(昭和 23)年までの財団理研時代に就任した主任研究員の大学での兼務状況をみると、その数は 57 名に上る。
主任研究員の数に比例して大学での研究も広がり、大学の研究室が増えるにつれて優れた研究者を育成する環境も充実するとともに、数多くの特色ある研究が展開された。

さらに、大河内は優秀な研究者であれば、「場所などは、どこでやっても構いません」との方針を打ち出し、例えば、当時世界一の永久磁石(KS 磁石鋼)を開発した東北帝国大学の本多光太郎博士、石油化学工業の京都学派と言われた喜多源逸博士など各地の帝国大学に理研の研究室を設置し、駒込上富士前町の理研研究室と全く同等の方針で運営することを是とし、研究をサポートし続けたのである。

このように、理研が日本の科学技術史上、輝かしい成果を挙げることができたのは、当時革新的と言われた主任研究員が主宰する研究室制度にある。
また、大河内はそこで生み出された研究成果としての論文を重視し、理研独自に学術誌を刊行、「理化学研究所彙報」(後に理化学研究所報告)、あるいは欧文の「SCIENTIFIC PAPERS」として刊行したことも大きい。

二つ目は、研究成果の産業化を通じた国創りであった。
最初、大河内は、鈴木梅太郎研究室で鱈の肝油から抽出分離に成功したビタミン A を理研内で試験的に商品化できないかプロトタイプとしての実験工場を作り、「理研ヴィタミン」として製品化し、売り出した。
「理研ヴィタミン」は大河内の目論見をはるかに超え、脆弱だった理研の財政基盤を立て直した救世主になったのである。

大河内は次々と出てくる研究成果を研究所内で商品化し完結するというシステム化を図り、運営に乗り出していくのである。
しかし、理研は公益法人という性格上、利益の追求には自ずと限界があり、大河内は、後にベンチャー企業の先駆けと言われた理化学興業(株)を立ち上げ、これを核に最大時には 63 社もの理研をサポートする企業集団(理研コンツェルン=産業団)を形成するに至った。

昭和 14 年には、理研の運営経費の 82%までをコンツェルンからの特許イニシャルフィー、ロイヤリティー、配当金などで賄うという理研設立目的であった民間資金を通じた研究所運営を具現化し、さらに所長就任時での方針・決意を体現化したのである。

(参考:「大河内正敏 人とその事業」(昭和 29 年 9 月 1 日 大河内記念会)より
(参考:財団法人理化学研究所 「研究 25 年」)より