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エピソード

第2回 渋沢栄一の評価


大河内正敏は大正10(1921)年、理化学研究所の第三代所長となった。

理化学研究所の設立検討は、大正2(1913)年に米国から帰国した高峰譲吉博士が「国民化学研究所」の必要性を提唱したことに始まる。
高峰は、理化学工業の時代の到来を予見し、国産を興そうとするには、基礎となる純粋理化学の民間の資金による研究所を設立することが目下の急務と、財界の重鎮である渋沢栄一を説いた
渋沢は、同年6月、120人近い当時の名望家である官・財界人を築地精養軒に招き、高峰にその構想の講演を行わしめ、参加者の同意を得た後、関係者議論の上、大正3(1914)年3月、経済界、学界の有力者と連名で化学研究所設立の請願を議会へ提出した。
この請願は議会の解散とともに審議未了となったが、同年7月に勃発した第一次世界大戦による医薬品や工業原料の欧州からの輸入杜絶、制限による産業上の制約を憂いた工業化学会より農商務省より意見書が提出され、これを契機として、化学研究所の設立の機運が高まった。
翌大正4(1915)年3月の農商務省化学工業調査会会合において、化学のみでは範囲が小さすぎる、元来物理学と化学は相離るべからざるものであるとし、物理学を加えたものとして構想を練り直すこととなった。
この間、渋沢は時の内閣総理大臣大隈重信への働きかけを含め、政界への働きかけを積極的に行った結果、同年6月に物理学を加えた理化学研究所の設立が決定され、その後渋沢はその創立委員長となった。
大正6(1917)年3月20日の財団法人理化学研究所設立に当たっては、渋沢栄一を設立者総代として財団法人理化学研究所の設立を申請しており、理化学研究所と渋沢栄一の関係は大変深く、渋沢は設立までに並々ならぬエネルギーを注いだ。

その渋沢が、大河内が所長になって2~3年後に、理事会で大河内を称賛したことが記録に残っている。

その場にいた理化学研究所理事、主任研究員で東京帝国大学教授であった片山正夫博士が、その趣意を以下のとおり「大河内正敏 人とその事業」に寄稿した文章に、残している。

「(大河内)博士の先祖は智慧伊豆と呼ばれた信綱候であって、三代家光将軍を補佐して徳川家の威望を全たからしめたのであった。博士は先祖を恥ずかしめぬ智慧者であって、その行動はよく肯綮にあたり、将来わが国の学術と事業の為に大いに貢献せられることを期待するものである」

渋沢は、理化学研究所設立に大いに貢献したのみならず、その後、高峰が予見した理化学工業、即ち科学主義工業の具現化のため、大河内が理化学興業を起業する際、経済的なバックボーンとなっているが、この称賛の弁において、いみじくも渋沢が、大河内への期待として学術のみならず事業を挙げていることが注目できるものである。

(参考:「大河内正敏 人とその事業」(昭和29年9月1日 大河内記念会)より「大河内博士の憶い出 片山正夫」)