大河内正敏の歴史
大河内正敏の歴史
プロローグ:大河内家の源流
(財)理化学研究所第3代所長、子爵大河内正敏。「知恵伊豆と称せられ、徳川家光、家綱に仕え、江戸幕府の基礎を固めた松平信綱の末裔に当たります。信綱以後、大河内と名乗るようになりました。大河内家は、吉田藩(愛知県豊橋市)、 大多喜藩(千葉県大多喜町)、高崎藩(群馬県高崎市)の三家に分かれ、幕末まで続きました。
正敏は1878年(明治11年) 12月6日、旧大多喜藩主 大河内正質の長男として生まれました。父・正質は幕末、鳥羽・伏見の戦いで幕軍 (江戸幕府)の総指揮官として歴史の中に名をとどめています。徳川政権が安泰であったならば、正敏は次期藩主としての地位を得て、藩運営を託されていたに違いありません。
第一幕:麒麟児 大河内正敏
明治政府設立後、父・正質が明治天皇の“お馬”の御用掛に就いていた縁もあり、学習院初等科時代、大正天皇の御学友に選ばれ宮中に出入りし、明治天皇の寵愛を受けました。1898年(明治31年)には、幕軍につき凋落した大多喜・大河内家を救うため、旧吉田藩主大河内信好の妹、一子と結婚し、婿養子となりました。
身の丈180cmにも成長した正敏は、麒麟児として青年時代を過ごします。第一高等学校から東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)に入学。1903年(明治36年)には、造兵学科(現・精密工学科)でを優秀な成績を修め、“恩賜の銀時計”が与えられました。ヨーロッパ(ドイツ、オーストリア)に私費留学した後、1911年(明治 44年)、東京帝国大学造兵学科の初代教授に就任します。
第二幕:理化学研究所との出会い
1917年(大正6年)3月20日、日本で初めての民間研究所として、皇室からの御下賜金、政府および産業界からの補助金、寄付金をもとに、財団法人「理化学研究所(理研)」が設立されました。 正敏は、理研の設立準備から参加、新研究所にふさわしい建物や設備の設計に携わります。理研設立後は、長岡半太郎 (物理学部長)、池田菊苗(化学部長) ら当時の著名な研究者と肩を並べ、研究員として活躍しました。
正敏が理研の第3代所長となったのは1921年(大正10年)のこと。当時、物理学部と化学部との間の内部対立などから理研は存続の危機に陥っていました。この危機を打開するために正敏は、研究室を主宰する指導者(主任研究員として委嘱)に対して、人事権や予算権など研究室運営の全ての裁量権を認めた「研究室制度」を導入します。大河内改革は功を奏し、“科学者の自由な楽園” として理研の礎が築かれました。
第三幕:理研産業団と科学主義工業
昭和初期、三井、三菱、安田、住友など財閥には及ばないものの一大企業集団がありました。その名は“理研産業団(理研コンツェ ルン)”。最盛期 (1939年)には63社121工場を数え、理研で生まれた研究成果を社会に還元する役割を果たし、産業団から得られた利益は、理研における基礎科学の推進費として、費やされました。この理研産業団の中核を成していたのが正敏によって設立された理化学興業株式会社です。
正敏は、資源に乏しい日本の現状を鑑み、科学において 国家の産業基盤を成す“科学主義工業”を唱えていました。「科学の命ずるところに向かって驀進する」の言葉に込められた正敏の主張は、科学を活用して生産性の向上を図り、 良品を廉価で製造することにありました。当時の資本主義工業は、低賃金の労働力を頼りに生産原価をきりつめており、正敏の考えは、それに対抗するものでした。
第四幕:才気に富んだ正敏の素顔
理研の舵取りや理研産業団の形成など、優れた経営手腕を発揮した正敏は、その一方で狩猟を好み、美食家として名を馳せ、絵を嗜むなど才気に富んでいました。 特に陶芸に対しては、深い造詣を持っており、陶磁器の鑑賞研究家として『日本陶芸器の分類法』や『古九谷論』などの本を著しました。また、東京・谷中の屋敷や別荘の庭は自ら設計し、深山幽谷の趣があったと伝わっています。
正敏には5人の息子がいました。長男・信威は、正敏の片腕として理研産業団の経営に参加し、二男・信敬、五男・信秀は、画家として頭角を現します。三男・信敏は、実業家への道を歩み、四男・信定は、生物化学の研究者として理研鈴木梅太郎研で活躍しました。正敏には画才があり、二人の息子が画家となったのも正敏の影響かもしれません。また、銀幕のスター・河内桃子は、信敬の娘で、正敏が特に可愛がった孫の一人です。
エピローグ:今に息づく大河内精神
満州事変から日中戦争と次第に戦時色が濃くなるなか、科学者と研究活動にもその影が差し始め、理研や理研産業団も軍事体制に組み込まれていきました。その様な経緯から、戦後、理研産業団は戦争に協力した財閥の一つとして 連合国軍総司令部 (GHQ) によって解体されてしまいます。一方理研は、識者の努力によって、株式会社化され存続されたものの、理研産業団との関係は絶たれ、長く苦しい暗黒の時代を迎えます。
「産業団という財政基盤を失ったからには、もはや国民に頼るしかない」との言葉を残し、正敏は所長の座を辞し、 1952年(昭和27年)、波乱に満ちた74年の生涯を閉じます。理研はその後、正敏の予言通り1958年(昭和33年)、 科学技術庁傘下の特殊法人として復活しました。理研の礎を築いた正敏の亡きがらは、奇縁にも理研・和光本所にほど近い大河内・松平家の菩提寺である平林寺(埼玉県新座市)に埋葬されています。